善意と愛と品質と

以前「増田(仮名)メソッド」について書いた。要するに「仕事をちゃんとやりつつ定時に帰ろう」という、ワークライフバランスについてのお話だ。

それと対極に位置する話として、「品質は善意によって担保される」というテーマで書いてみた。またしても昔語りなので、御用とお急ぎでない方のみお付き合いいただければ幸いである。

なお、御用とお急ぎの方のために簡単にまとめると、このエントリは以下のようなテーマで記述されている。

  • ゲームプログラマは世界で一番楽しい職業である
  • ソフトウェアの品質は「責任感」と「善意」で担保される
  • ギークの善意を引き出すことがブルーオーシャンの第一歩

私は25歳から33歳まで、ゲーム業界で働いていた。最初は外注の作業員(データコンバートなどを請け負っていた)、やがて内部で企画職のアシスタントをしながらスクリプタ(ゲーム用に内作した簡易言語でシナリオに演出を乗せていく作業)、そしてプログラマへとクラスチェンジしていった。

「ゲーム業界=激務」というイメージが強いと思うが、実際激務である。よそがどうだかはよく知らないが私の在籍した会社に限って言うと、24時間365日、常に誰かがいた。オフィスを完全に戸締りするのは年に1~2日あるかどうか。幸い私は経験していないが、作業しながら年明けを迎えることも珍しくなかったようだ。

私も当然それなりに激務で、450時間労働が3ヶ月続くなんてこともあった。450(時間)を30(日)で割ってみてごらんなさいな、てなもんである。10年は続かなかったが、「泥のように働け」の流行をずいぶん先取りしていた。

デスクの下に布団を敷いて眠り、起きた瞬間から働く。銭湯の閉店時刻(午前2時半!)を気にしながら働き、力尽きたら寝酒を流し込んでデスクの下へ。帰宅(実家住まいだった)は週に一度衣類を入れ替えに行くのみで、親とは始終ケンカをしていた。仕事が理由で破談になった恋愛はわかっているだけで4件ある。

一年中ピークだったわけじゃないが、年に1~3度ほどはこうしたマスタアップ前の修羅場がやってきて、そして去っていった。

収入もすごかった。残業代などというシステムはなかったので、時給換算すると東京都の最低賃金を大きく下回っていた。ソフトがどかんと売れればインセンティブも支給されるのだが、私が在籍した期間は大変残念なことにそんなことはなかった。某大手同士の合併騒ぎに巻き込まれてプロジェクトが消滅したことはあったけど。

…と、こんな感じの職場で8年ほど働いていた。書いてて息苦しくなってきた。

だが、楽しかった。「ゲームプログラマは世界で一番楽しい職業」だから。

何が楽しいのかを言い表すのは難しい。もともとゲームで遊ぶのは好きだったが、作り手側に回ってからは遊ぶ時間がなくなった。「作り手」と言ったって好きなものを作れるわけじゃないので、ダメなシナリオや押し付けられるキャラクタと折り合いをつけるのが大変だった。前述したとおりボーナスもないし、プロジェクト終了後の長期休暇もなかった。

それなのに、月に450時間働くなんてことをやっていた。

ゲーム業界で長時間働くのは、ひたすら「品質」のためである。ここでいう品質とは「ソフトウェアとしての品質」と「ゲームとしての品質」に分類される。

ひとつめ、「ソフトウェアとしての品質」とは、バグ(プログラムなどの誤りによる不具合)が少ないことを言う。家庭用ゲーム機用のソフトウェアは「一度出したらそれっきり」。webや携帯、PCゲームなどと違って後からアップデートすることは不可能である。当然テストにはかなり長い時間をかけるし、ゲームの進行を妨げるような重大なバグは草の根分けても探し出して叩き潰す必要がある。

ふたつめ、「ゲームとしての品質」とは、実際に遊んでみたときの「遊び心地」とでも言えばいいだろうか。ゲーム制作においても仕様書は存在するが、すべてを記述することはできない。例えば「ボタンを押してからメニューが開くまでの速度」であったり、「データ読み込みの短さ」であったり、絵コンテに書ききれない演出の「間」であったり。仕様書に書けない(=定量化できない)けれども、そこに熱意と時間をかけるかどうかが、遊び心地に大きく影響する。

私は、ソフトウェアとしての品質は「責任感」、ゲームとしての品質は「善意」によって担保されると考えている。「責任感」は文字通り仕事への責任感であり、これがあまりにも欠けると社会人的な意味でまずいことになるのは自明であろう。

もうひとつ「善意」。これはモチベーションという言葉と可換性があるが、私はあえて「善意」と呼ぶことにしている。「愛」と呼んでもいいが連呼するのはちょっと恥ずかしいので「善意」。

職場環境の苛酷さは長々と書いてきた通りである。しかし、当時の私はあまり苦しく感じなかった。善意で働くことに喜びを感じていたからである、たぶん。その証拠に当時のことを誰かに話すとき、「収入の半分は夢と希望だったんだ」と茶化して話すのだ。「(笑)」をつけないとなかなか恥ずかしいフレーズだが、振り返ってみると意外と適切なフレーズだったりする。まぁ、金銭的な収入が倍になってもたいした額じゃないのだが。

当時の私が書いたものの品質についてはともかく、品質を高めるべく連日泊り込むことができたのは、収入(の半分を占めている夢と希望)を根源とした「善意」だったのだろう。

ここまで読んで「ゲームに限ったことじゃないじゃん」と思われた方がいらしたら、まさにその通りである。ましてやソフトウェア開発に限らず、ほとんどの仕事の品質には「責任感」と「善意」が大きく関わっているのではないだろうか。

時は流れ、webプログラマになった私は、最近「善意」の根源を見出せずにいる。内部的な事情があるのはもちろんだが、その「事情」とやらに引っ張られ、手がけているものに対する「愛」を見出す努力が欠けているのは反省すべき点である。反省。

そろそろまとめに入る。ここでは「ギーク:技術者、スーツ:非技術者」という単純な分類をしているのでご了承いただきたい。

ギークの皆さん。取り組んでいる仕事に善意を傾ける努力をしよう。あなたが(そして我々が)つくったものを愛することで、つくったものの品質が高まる。それは遠く長い道のりだが、最終的にはあなたと、そしてあなたがつくったものを受け取る人々を幸せにする道のりなのだから。

スーツの皆さん。言うことを聞かないギークどもにいつもご苦労されていることと思う。だが、ギークは言うことを聞かないのではない。善意を注ぐべき対象を探しているだけなのだ。今度取り組む案件においては、頭の片隅に「ギークどもから善意を引き出すには」というテーマを置いた状態で取り組んでいただけないだろうか。ギークどもが気分よく仕事をすることが、当事者みんなが幸せになる第一歩であるのだから。

余談ながら、善意を愛と呼びたくないもうひとつの理由は、仕事が理由で私に愛想をつかした「愛ちゃん」という女性がいたから。善意に突き動かされていたら愛が去って行ったなんて、ジョークとしても性質が悪い。